前巻ラスト、人の悪意が溢れ出した事に拠って出現した86区の再現には度肝を抜かれ、そして続くこの巻の内容には恐怖ばかり覚えていた。その為に読み始める際はそれなりの気力が必要だったのだけど…
開いてみれば意外な程に希望に満ちている内容だとも感じられたよ。絶望なんて無いという意味ではなく絶望を知っているからこそ希望を忘れないという抵抗の精神性。かつては共和国という国の中ですら86区に放り込まれた一部のエイティシックスしか掲げていなかった精神性が、死が間近に迫る戦場にて改めて掲げられる様には感動すら覚えるよ
ただ、そのような言葉で誤魔化せる程には希望ある戦場でもないというのも事実ではあるんだけど
連邦で生じた戦場隔離は共和国で行われたものと瓜二つなようで居てその内実は異なるものだね
国策として戦場と市街を切り離し戦闘員と定めた者達を戦場から逃げられないようにした。その点は同じでも、あくまでも軍部が大混乱に陥っていた人心を落ち着かせ且つ将来的な勝利を手にする為に意図的な愚策として行った点は異なる
だからか<戦史編纂室>なんてものが設けられるし、レーナは変わらずシン達を指揮出来る。また、戦場への補給も共和国とも大違い。連邦は正義たらんとする誇りが人民の心が腐ろうとも、国としては腐ってなるものかとかろうじて踏み留まっている。それが結果的に戦場へも届き、彼らの精神を本当の意味で腐らせずに済ませている
特にリュストカマー基地において、本作の最序盤にて犠牲になったクジョーが掲げていた標語が蘇るのは感慨深いね
あの頃は矜持だけでもと守る為に掲げていた「笑えなくなったら負け」という精神性、それが今は戦いの先に待っている勝利の為に、つまりは本当に勝ちを目指して掲げ直されるのは印象的な情景。あの頃のお陰なんて言うのは間違っているのだろうけど、エイティシックスが86区を生き残ったからこそ意味のある言葉として隔離された戦場でも活きているように感じられる
そのような精神性が行き渡っているから、あのような戦場であろうとも未来を志向する者が居るんだよね。ミチヒが新しいお菓子を考案して施策したように、トールが再び幸せを求める為に勉強を再開したように、負傷の為に戦場から遠ざかっていたセオが自らの意思で戻ってきたように
あの戦場は86区のようでいて全く異なる場所だと判る
また、そうした抵抗の精神性が戦場だけでなく、少しだけ連邦の内部でも活きていると知れるのは良いな
共和国の頃はレーナが無知なままに孤独な抵抗をするしか無かった。けれど、連邦ではニュースキャスターがラジオを通じて“楽しさ”を忘れずに居られるよう抵抗している。そして、その抵抗は薄く広く行き渡っていると感じられる
悪意に抵抗しようとしている者は壁の外にも内にも確実に存在している
そう実感できたからこそ、エイティシックスの中心人物であるシンを支えるライデンの心が堕ちそうだったというのは何とも言えない感覚に陥ってしまったな…
シンも一時は悪意に陥りかけていた類いだし、他の者も全く心によぎらなかったと言えば嘘になるだろう考え方。それでも、ライデンだけはああした考え方に陥るとは思わなかったからなぁ……
これってシンとライデンの視点が変わってしまったという背景もあるのだろうなと思える。シンは戦帝として恐れられる中で、自らへの悪意を利用して連邦軍を未来に亘って結束させようとしている。また、総隊長として部隊を纏めつつ上との交渉も行っている。それはもはや政治家か官僚的な立ち位置かもしれず
だとしたら、シンを支える相棒をやっていれば良かったライデンとは心の拠り所が大きく異なってしまっていたのは仕方ないかもしれない話なんだよね…
それだけに二人を公平な視点で見遣れるセオが戻ってきたのは本当に良かったよ
セオとて少し違う形でシンを支えてきた人物で、シンにもライデンにも言いたい事が言える人物。セオのお陰でライデンは自分の心が戦場の悪意に染まりかけていたと自覚できた
これ、自覚できたのがあの精神撹乱型出現の前で本当に良かったよね…。てか、レギオンはいつだって人類に最悪な作戦を仕掛けてくるけど、今回のはとびきりですよ……。トラウマを想起させるとか人の心無いんかと言いたくなる。まあ、レギオンに心は無いんだけども
新たな危機、意識喪失のシン。それでも状況に抵抗しなければならないなら、今度はライデンが矢面に立つ事になる。そうすれば理解できるようになるのはシンの立場だね
これまで支えるだけで良かったシンがどれだけの苦悩の中で己を律していたかを理解できた。おまけにフレデリカからイイ感じの叱咤激励も貰えた
一度は堕ちかけたからこそ何に抵抗しなければならないのかを知り、86区を生き残ったからこそ何を掲げれば良いかを知り。そうしてライデンが起こした新たな抵抗は悪意に満ちた状況を変えるきっかけとなるね
何も全員が変われた訳でも己の悪意に気付けたという訳でもない。けれど、すぐ近くにいる“自分とは違うもの”と思い込んでいた相手を“自分と同じような人間”だと気付けた。それは何よりも大きな力を持つ抵抗の種であるように思えたよ……
ライデンが戦場で抵抗するなら、シンは心での抵抗を行う。まさか今更になってレギオンが降伏勧告をするだなんて
それはまだ絶望も希望もレギオンの無惨さすら知らなかった頃の弱い心であれば惹きつけられたかもしれない誘惑。けれど堕ちずに人間で在り続けると決意したシンだからノゥ・フェイスの勧誘は効かない。シンの心に迷いはない
同様に共和国の戦場も連邦での戦場も数多く経験し、誰と共に戦うかに迷いのないレーナがシンの危機に駆けつける様は良かったなぁ
状況を理解しきれているわけではない。それでも自分が何をすべきかは知っていた。彼女も抵抗の遣り方を心得ている。だからシンも弱りきっていた心を明かして彼女を頼ることが出来たのだろうね…
幾つもの抵抗の果てに遂にエイティシックスやレーナが向かい合うべき敵の正体が判然とした。そして逆転への一手は探り続けられている。状況は悪くても最悪ではない
だというのに、ラストに何かとんでもない事が起こってない?あれ、どういう事態?