
(C)2025「君の顔では泣けない」製作委員会
多感な時期に入れ替わり、そのうち戻れると信じて15年。坂平と水村の過ごした日々はまるで泥のように沈殿していくものだったのだろうね
戻れる筈だと考えているから相手の人生を借りているという感覚が拭えない。他人の人生を借りているという気持ち悪さが付き纏う。それは互いに過ごす15年を余計なまでに深く考えて過ごさざるを得ないものとなる
他方でよくよく考えてみれば15歳から30歳までの人生なんて最も強く揺れ動く時期とも言える。高校生活に受験に大学に就職に恋に家庭に…
年代特有の事情に加えて、他者に明かせない秘密を共有する事になったらどのような人生を歩むのかをこれでもかと表現した作品と思えたよ
本作を鑑賞している間、ずっと頭にこびり付いていたのは「アイデンティティが一旦形成されかかった時期にもう一度アイデンティティを組み直さざるを得なくなったなら、その人の自己認識や自我はどうなるのだろう?」という点か
坂平も水村も入れ替わった時点で人格は充分に備わっていた。親しい友人は居るし家庭環境は自分が居る事を前提に成り立っている。だから入れ替わって相手の人格を間借りするような形で過ごす事になれば違和感が生じる
水村は坂平の身体で相手を取っ替え引っ替えのようなタイプになってしまうし、坂平は水村のような人間関係を築けずイラつきが増えてしまう
そういった要素は繰り返すけど、普通に己の人生を生きていたって起こり得るもの。2人の場合は入れ替わりの事態が余計にややこしく繊細な人生へと変えていくだけで
けど入れ替わっているからこそ、2人にとって互いの存在は人生を歩む上で助けとなるんだよね。坂平は感極待った際に自分達を「運命共同体」と称した。それは様々な意味でその通り
坂平と水村はいつか元の体に戻った時の為にと連絡を密に行い、家庭の事情や普通なら明かし難い性体験も話し合う。それは下手したら家族以上に頼れる相手。秘密の関係を有する2人は普通の人よりも生き易い人生を送っていたのではないかとすら思える程
ただ、何でも相談できる運命共同体だからこそ、互いの想いがすれ違っていると認識してしまった時、共存する事が難しくなってしまったんだろうなぁ
己は坂平陸なる男性であるという自我を保ち続けていた為に男性と交際する事も実父の葬儀を正面から受け止める事も出来なかった坂平。自我が他人に奪われ他人の姿で過ごす事に苦痛を覚える感覚から坂平という人生を歩む事が出来なかった水村
二人とも己が己では無いという事実を受け止めきれなかった。それは他人に明かす事は出来ず、また入れ替わっている相手にぶつける事も容易ではない
全ての事情を知る2人で過ごしている時に素の自我を出せるけど、それを以て安心して想いを託せる相手とまでは成り得なかった。だからこそ、二人にとって最も安寧へと至る元の体に戻る行為に関して意識の差が有るのでは?となった時、二人はどうしようもない衝突を迎えてしまったのだろうね
掛け替えない関係である二人が離別したなら、当然のようにそれぞれの人生を過ごすしか無い。ここで坂平は坂平陸としての自我が薄れるかのように出産まで至るのに、水村はもやもやを抱えたまま活き続けていたというのは意外な姿に思えるし、そうしてそれぞれの自我に沿った人生を歩んでいた筈の二人が死の恐怖と相手への申し訳なさによって再び結びつく様子は印象的なものがあったな
出産は1人だけの行いではない。通常、それは夫婦間の共有行為と成るのだけど、坂平にとって水村こそ共有する相手と成るわけだ。そして遠き人生を歩んでいても坂平は未だに水村まなみの身体に彼女の自我や人生を見出していたと知れるのは水村にとって救われる心地が有ったのだろうと思えるよ
そう考えると二人の関係って少し奇妙な部分があるんだよね
坂平より精神的に成熟している風な水村こそ坂平を助けているように見える。なのに、未熟ながらにどうしたら自分達は元に戻れるのかと精神的に悩み続ける坂平の在り様こそ水村を助けている
だからか、元に戻るかどうかの選択肢は簡単に答えを出せるものではないと二人が異なる答えを出そうとし物別れに終わった時に、自分達で答えを出すのではなく天運に任せる形とした坂平は気持ちが良いね。
二人の入れ替わりは意図しない形で始まった。なら終わりだって意図しない形にしたって良い
ラスト、二人がどうなったかは曖昧。けれど、“君の顔を見て笑ってしまった”二人は納得できる自我へと辿り着いたのではないかと思えたよ
本作はストーリーやテーマ性について勿論語りたく成るけど、坂平と水村を演じた4人の演技にも言及したく成るね
現状の自分とは異なる性別を演じるだけでも大変なのに、自我と異なる肉体で生活しなければならない不安定な情緒も合わせて表現しなければならない。高校生時代を演じた西川愛莉さんと武市尚士さんの演技は良かったけど、大人時代を演じた芳根京子さんと髙橋海人さんの表現は輪をかけて良かったな
というか、二人が醸す雰囲気がとんでもなく良かったと言うべきか。坂平と水村って入れ替わるまでは大して交流とか無さそうな関係だったろうに、運命共同体となった事で誰にも言えない秘密を共有するように成り、最も信頼し合える相手となっていった関係性。芳根さんと高橋さんの演技表現はそうした独特な気安さを存分に見せてくれましたよ
そのような表現の積み重ねがあったからこそ、あのラストシーンに対して答えが示されなくても良い終わり方だったと思えたわけだし