
(C)Pianoforte
弾く直前に生じる静寂に満ちた緊張、弾き終わった後に出会える万雷の感動、それらが何度も寄せては返す波のように繰り返される作品だったよ
本作はドキュメンタリーだから整然としたストーリーがある訳では無い。取材されたピアニスト達も演者では無いから整った台詞回しをする訳でも無い。けれど音楽の合間にふと溢す発言は彼らが演奏する音楽に近い価値を持っているように思えてしまう。だから音楽にさほど詳しくない人間でも彼らの言葉を通して彼らの音楽が理解できると思えてしまう
…こんな事をピアニスト達に言ったら怒られてしまうかもだけど
本作では有力候補にコンクール開始前から張り付き、その人となりを映そうとしているね
特に若年であるエヴァとハオは力を入れて映し、ある程度芸歴のあるアレックスやレオノーラは余裕を忘れないピアニストとして映し、他にもこれは!という人物を映し取っていたね
だからコンクール出場者の中で要注目のピアニストについては制作陣によって選定されていたと言えるのだけど、コンクールという特殊性を思うと、中でもマルチンには目が惹きつけられたよ
映されたピアニストの中で最も多弁でありコンクールを勝ち抜く為に自分がどのように見られれば良いのかをもしかしたら誰よりも考えていた。特にエヴァが言葉少ないタイプである事を思えば、対比とまで見えかねない人物
そのような印象を抱いていたからこそ、指導者からの圧迫やコンクールへの緊張により神経質になっていたエヴァが本選まで残り、マルチンが途中で重圧に押し負けて棄権する構図は印象的に映る
コンクールは当然ピアノの技量を試される場であるけれど、同時に人間としての底力が試される場でもあるのかもしれない
なら、演奏が終わった夜にアレックスやレオノーラがバーへと繰り出したりするのは彼らなりの息抜きであり、自分を保つ方法の一つなのかもしれないと思えるね
だとしたら本作において、特にエヴァとハオの分量が多かったのはコンクールを勝ち抜く中で見えてくるピアニストの人間性を映したかったのだと見えてくるよう
そう思えてしまうのはこの二人について、映し方に演出が見えたからだろうか
前述したようにエヴァはコンクールに挑む中で神経質な面が見えたがそれは制作陣がそのように切り取ったからという見方もある。特に指導者と楽団の指揮者が話すシーンでの演出は顕著だったかも
同様にハオも家族の想いをより強調する事で彼の「子供のような」一面が強調されている。その演出法の一つが指導者の言に拠る処もあるけど、彼女をまるで母親のように映してたからとも言えるし
そうした演出が悪という訳では無いけど、どうにも目についてしまう演出だと自分には感じられたよ
だから制作陣がコンクールに出場したピアニストを平等に見ている訳でも無いと感じてしまった
それが明確化されるのは本選優勝者が判明した瞬間。それまでは視点を散らばせて幾人ものピアニストが直面した緊張と感動を綴るかのように映していたカメラがあの瞬間から敗者となったエヴァとハオの表情や言動を映すのに夢中になる。それは本作を鑑賞する私達も観たいモノの一つであるのは確かなのだけど、反対に勝者の表情を映す時間は減ってしまったのは気に掛かる
まあ、そうした作為によって年若い2人が再び挑戦を始めるだろう2025年への期待が膨らむように作られていたとも言えるんだけどね
本作を鑑賞する際、日本人なら気になってしまうのは反田恭平さんと小林愛実さんの躍進か
当時、結果が判明するまでは日本においてショパンコンクールなんて全く話題に上がっていなかったのに2人が入賞したとの報が出された途端に、2人に耳目が集まった。いわばあの時は結果だけが出されたような状態
それを思えば、本作を見る事で2人がどのようにコンクールを戦っていたのかを日本人以外の視点によって知れるかと期待していたのだけど、想像以上に二人には触れていなかったね。その理由が入賞候補として注目していなかったのか取材許可が降りなかったのかは判らないけれどね
こうした面はコンクールが始まる時点で誰に注目してドキュメンタリーの制作を始めるのかという難しさの一面を見てしまった気がしたよ。勿論、映画として映されていないだけで、大勢への取材を行ってはいたのだろうけど
ただ、マルチンの境遇に現れるように、勝者ではない者を映す事で鑑賞者が得られる感慨もあるのだから、こうして形作られた本作の在り方が何か間違っていたという訳でもない
どうやら明日からまた新たなショパン国際ピアノコンクールが始まるようで。この映画を見た事で得られた感動を手元に置きながら、今暫くの間はショパンの音楽に浸りたいものですよ